2014年9月19日金曜日

本埜の仏刹(8) 南陽院 (印西市・笠神)

南陽院は 印西市(大字)笠神726番地にあります。
この周辺は明治時代の中頃まで笠神(かさがみ)村という地区でした。

本埜のかつての村域図 (本埜村教育委員会『本埜の歴史』(2008))

笠神地区は 小林地区の東南に位置し、旧本埜村の中心部にあります。
現在、笠神地区には 印西市役所本埜支所や本埜中学校があります。


南陽院は周囲よりも一段高い台地に建っています


南陽院とその周辺の地図
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用


以下のサイトによると、南陽院とその周辺には、鎌倉時代に築かれた笠神城の城址が残っているそうです。
詳しくは、以下のサイトをご参照ください。

 ➜  城郭図鑑 笠神城

 ➜  千葉県の城址 笠神城


山門への階段


山門には 右に「天台宗」、左に「南陽院」と書かれています

1913年に発行された『千葉県印旛郡誌』の「本郷村誌」には、その「寺院仏堂誌」の筆頭に 南陽院についての記述があります。

  笠神村 字船戸にあり、天台宗比叡山派にして 中本寺 泉倉寺末なり。
  阿弥陀如来を本尊とす。 勧請年月 不詳。
  堂宇、間口 7間、奥行き 6間半。 庫裏、間口 8間半、奥行き 5間半。
  境内、1,100坪あり。 檀徒 850人を有す。
  境内 仏堂2宇あり。 すなわち、
   1. 大師堂 元三大師を本尊とす。 由緒不詳。
         建物、間口 2間、奥行き 2間なり。
   2. 観音堂 三十三観音を本尊とす。 由緒不詳。
         建物、間口 2間半、奥行き 2間なり。

これを見ると、かつては大変 威勢のあった寺だったようです。

本堂前の回向柱


本 堂


本堂の左に お堂があります


元三大師堂の近景


鰐口 と 「元三大師」(がんざんだいし)という扁額

余談ですが、「鰐」の意味と語源については、以下が大変参考になります。

➜  語源由来辞典 ワニ


本堂の右手にある 印西大師 第四十四番札所の大師堂


扉が引き戸です 大変珍しい


大師堂に掲げられている扁額

扁額は、以下のように読めます(翻刻ではなく、文字をできるだけ元の字にしました)。


  印西霊場 第四十四番
  伊 豫 菅生山 寫 

    以満乃 世盤 多゛以ひの めぐみ 春がう 左゛ん
    つい尓は 三多゛能 ち可以 をぞ まつ

   笠 神 南陽院


本家である四国八十八箇所霊場の第44番札所、菅生山(すごうざん) 大寶寺(だいほうじ)の御詠歌そのままです(以下)。

    今の世は 大悲のめぐみ 菅生山
    ついには弥陀の 誓いをぞまつ



「新四國靈場  結願祈念碑」

この結願祈念碑には、台座に「印西組信徒中」と刻まれていて、さらに碑の下の方には 次のような 3つの村の寺院名があります。
  ・笠 神かさ がみ 南陽院
  ・平 賀ひら  か  來福寺
  ・師 戸もろ  と  廣福寺

これの意味するものは何でしょう。
南陽院だけでは 結願を実施するのが困難だったからでしょうか?
かつての南陽院の威勢を考えると、たぶん そんなことはないでしょう。

近隣の寺ではなく、遠く離れた平賀村や師戸村の寺の名前があるということは、これらの寺とは特別な縁があったのではないかと考えられます。


追 記 2015.10.15

印西市岩戸にある「印西市立印旛歴史民俗資料館」の展示を見ていると、
「印西大師」の説明があり、そこに解答が書かれておりました。
あっけなく疑問が解決しました。
以下に引用します。

印西大師は、「でぇしさま」と呼ばれ、法螺貝の音と白装束のいでたちでの巡礼は印西の春の風物詩です。
この講は、飢饉などによる民衆の困窮救済が目的で享保6年(1721)(一説には享保2年)に、笠神に所在する南陽院の臨唱法師の提唱により始まりました。
四国八十八か所霊場をうつした札所を巡り、大師講講員によって伝承されています。札所は白井市、印西市にまたがり、89か所の「本番」札所と71か所の番外(掛け所)の札所が所在します。

結願は三寺が1年交代で順番に結願寺になります。南陽院(笠神)➜広福寺(師戸)➜来福寺(平賀)の順で、この結願寺が所在する地区の笠神・師戸・平賀の三地区は「元村」と称されます。

毎年4月1日から9日まで泊りかけて行われていましたが、宿泊がなしとなり平成19年からは日数も短縮され、4月1日から6日までに変更になりました。徒歩ではなく車での移動になったことと、負担を少なくするためとのことです。

追 記 おわり


印西に香取の海があった頃 (本埜村教育委員会『本埜の歴史』(2008))

南陽院の置かれている場所の小字名は 「船戸」です。
香取の海があった頃には、笠神と 平賀や師戸の間を行き来するには 船に乗っていった方が、陸路を行くよりもずっと楽だったことでしょう。
もっとも、その当時にこうした関係が築かれ、結願が行われた頃まで  それが連綿とつながっていたかどうかは わかりませんが。

なお、明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布に伴う町村制施行により、師戸村は宗像村に編入され、平賀村は六合村に編入されています。
昭和30年(1955)に、宗像村と六合村が合併して 印旛村になりました。
さらには 平成22年(2010)には、印旛村は印西市に編入されました。


さらに小高い所にも お堂が見えます


三十三観音堂 建物の後ろには お墓がありました


「前住」とは 〈前任の住職〉という意味でしょうか


三十三観音堂の右手に延びる道には卵塔(僧侶の墓塔)が並んでいました


さらに奥にある「殉國者慰靈塔」 軍での位が書かれた墓が並んでいます


➜  本埜の仏刹(7) 戸崎観音堂(印西市・中根)

➜  本埜の仏刹(9) 押付の薬師堂(印西市・押付)